Special Interview

東京大学
先端科学技術研究センター

稲見昌彦
教授

「身体の自在化」から
「心の自在化」へ

2016年発行のF-Lab.2号で、「人間拡張工学」について、解説してくれた東京大学先端科学技術研究センターの稲見昌彦教授。その後、2018年から「JST ERATO 稲見自在化身体プロジェクト」がスタートし、研究は指数関数的に加速していった。あれから8年経った今、稲見教授が見据える「人間拡張工学」の未来とは?

「JST ERATO 稲見自在化身体プロジェクト」5つの研究テーマ

感覚の強化(超感覚)

物理身体の
強化(超身体)

心と身体を
分離して設計(幽体離脱・変身)

分身

合体

稲見教授が手がける「自在化」の研究は、人間拡張工学にさらなる広がりを与えるものだという。これは、「JST ERATO 稲見自在化身体プロジェクト」のテーマ設定にも表れている。

2018年からJST ERATO
稲見自在化身体プロジェクトが始動

 研究室で見せられた動画には、2本のロボットアームを装着し、何かに導かれるように神秘的なダンスを踊っているダンサーが映し出されていた。BGMはバッハのチェロ。いつまでも心を離さない不思議な映像だ。

「私たちがJIZAI ARMSと呼んでいるこのロボットアームは、遠隔操作で制御されています。1本2.5kgの自在肢を2本背負ったダンサーは、その動きに身を任せることで、新しいダンスが創造される瞬間を体験したそうです。それもまた私たちが追究する『自在化』のひとつの形かもしれません」

 そう語るのは、2016年発行のF-Lab.2号で「人間拡張工学(Human Augmentation)」の未来について語ってくれた東京大学先端科学技術研究センター身体情報学分野の稲見昌彦教授だ。人間拡張工学とは、身体・行動のシステム的な理解をベースに、ウェアラブルデバイス、メタバース、生成AIなど、さまざまな知見を用いて現実世界とバーチャル空間をクロスしながら、人間の能力を拡張する可能性を模索する研究分野だ。

 写真にある「JIZAI ARMS(自在肢/じざいし)」は、JST(科学技術振興機構)の支援による「JST ERATO 稲見自在化身体プロジェクト(2018年4月~2023年3月)」の一環として山中俊治研究室と共同研究が続けられてきた。キーワードは「自在化」。これは、前回本誌に登場いただいたときから稲見教授が発信し続けているテーマだ。

「前回の取材後、JST ERATO 稲見自在化身体プロジェクトがスタートし、『身体の自在化』を実現するための研究が加速しました。2017年時点で私の頭の中にあったものが、続々と形になった5年間でしたね。冒頭のJIZAI ARMSもそのひとつ。ウエアラブルなロボットアームによって、人間の動きを拡張できる可能性を示しました。2022年8月には、こうしたプロジェクトの成果を『自在化コレクション』という大規模会場でのイベントで発表しました。さらに、2024年5月には、この研究とのコラボレーションで生まれた遠藤麻衣子監督の短編映画『自在』がドイツの映画祭で上映されました。ここまでの展開は、2017年時点では予想していませんでしたね」

提供:JST ERATO 稲見自在化身体プロジェクト・東京大学 先端科学技術研究センター 身体情報学分野 稲見・門内研究室・東京大学 生産技術研究所機械・生体系部門 山中俊治研究室

今や多くの人が親しむようになった超人スポーツ「バブルジャンパー」

広く一般化した「超人スポーツ」

 JST ERATO稲見自在化身体プロジェクト以外にも大きな変化があった。前回の取材で紹介してくれた研究テーマのひとつに「超人スポーツ」がある。これは、スポーツに人間拡張工学を取り入れ、その研究成果を社会のさまざまな場面で役立てようという挑戦だ。

 「超人スポーツ」の競技アイデアのひとつに「バブルジャンパー」があった。これは、ビニール製バルーンとジャンピングシューズを身につけた選手がお互いにぶつかり合って相手を倒すというシンプルなゲーム。初心者も習熟者も両方楽しめる絶妙なゲームバランスが魅力だ。

「実は、超人スポーツの活動は、前回の取材後、どんどんメジャーになり、バブルジャンパーは、今や東京タワーで常設されるアトラクションになっているんですよ」

心を自在化する「自在ホンヤク機」

 JST ERATOの研究プロジェクトを経て、稲見教授の興味・関心は、身体の自在化から、心の自在化に向かっているという。

「ロボットを自在に動かせるようになれば、さまざまな機能や技能を自在に獲得できますよね。例えば、90歳のおばあちゃんでもけん玉ができるようになったりします。すると身体の自在化が心にも影響を与えるようになります。これが心の自在化です」

 心の自在化のサンプルとして、稲見教授が提示してくれたのが「自在ホンヤク機」のアイデア。生成AIを駆使して、対人コミュニケーションを支援するデバイスで、ドラえもんの「ほんやくコンニャク」からインスパイアされたものだという。活用するのは例えばこんなシーンだ。ニュースなどで取り上げられることが多い「カスハラ(カスタマーハラスメント)」。ここで威圧的なカスタマーのクレームをAIがソフトな言葉に自動翻訳し、窓口の担当者に届けるような機能が最近実現しつつある。このような技術により多くの人が救われるだろう。

「人類は、産業革命によって肉体労働から解放され、情報革命によって頭脳労働の効率化も実現しました。次に迫るのは情動革命です。自在化の技術によって、人間は感情労働から解放されるのです。他者の機嫌に左右されず、心を自在化しながら働いたり、生活したりできるのです。これは間違いなくウェルビーイングの向上につながります」

 ウェルビーイングとは、個人や社会がより良い状態であること。人々の生活を豊かにすることこそが、稲見教授が「自在化」の研究で目指すものなのだ。生成AIなどの登場により、世界は大きく変わっていくだろう。技術革新に合わせて、「自在化」の研究も進化していくはずだ。稲見教授は、5年後、10年後の未来をどう見据えているのだろうか?

「世界中で疎外を感じる人が大幅に減るのではないでしょうか。もはやコミュニケーションの相手は人間とは限らないし、何かが起こる場所もリアルの世界だけでなく、メタバースにも広がっているでしょう。そんな新しい世界で、誰もがウェルビーイングを実感できるようなデバイスを『自在化』の研究によって創造していきたいと思っています」

稲見昌彦

東京大学先端科学技術研究センター 身体情報学分野 教授

東京工業大学生命理工学部生物工学科卒業、同大学大学院生命理工学研究科修士課程修了。東京大学大学院工学研究科先端学際工学専攻博士課程修了。JSTさきがけ研究者、電気通信大学知能機械工学科教授、マサチューセッツ工科大学コンピューター科学・人工知能研究所客員科学者などを経て、2016年4月より現職。